老害にならないために
老害にならないための3箇条
若者に対してNG行動
1.説教
2.自慢話
3.思い出話
逆にするべきことは
1.相手の成功体験を聞く
2.声に出して褒める
3.年齢に関係なく謙虚に相手から学ぶ
歳を取れば取るほど相手目線で話ができなくなる
肝に銘じよう!
大人の言葉づかい
人間関係や仕事が上手くいく!美しい日本語
ビジネスの場だけでなく、社会で活動するすべての時間に使える日本語です。
普段なにげに使っている言葉を置き換えてみましょう。
おっ!こいつ出来る!って思われること間違いなし。
①了解しました → 承知しました
②知ってます/教えて下さい → 存じております/ご教授ください
③つまらないものですが → 心ばかりのものですが
④忘れてました/覚えておきます → 失念しておりました/肝に銘じます
⑤帰ります → お暇します/+お名残惜しいですが
⑥すごいですね → 感服しました
⑦※行為を褒められたときに → 冥利に尽きます
⑧頑張ります/頑張ってます → 最善を尽くします/鋭意進めております
⑨※もう少し待って欲しい時 → ご猶予いただけませんか
⑩※細かく確認された時 → 織り込み済みです/心得ております
「毎日どれか一つ使う!」と決めて、マスターしよう!
信頼を得る最強会話術
人は「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」を優先します。
何より信頼を得ることが大事なんです。
同じ内容のセミナーでもプロと素人ではまったく感じ方が違います。
では信頼を得る話し方とは何か?
その1
バックトラッキング
相手の話したことを繰り返す+5W1H ことです。
注意点は2つ
1 アクティブリスニング
表情豊かに相槌をうつと良いです。
2 価値観と人生観を深ぼる
質問をし心から興味を持つことで、相手への理解が深まり
より信頼を得ることが出来ます。
その2
相手の話全てを肯定する
褒める、共感する、感謝する、喜びを伝える
相手が話したあとは出来る限りこの4つを詰め込むとよいです。
わざとらしいと思われますが、じっさいにやられるとかなり効果あります!
参考
会議は30分以内ルール
会議は30分以内にするルール
社内・社外問わず30分以内で終わらせる。
それ以上は時間の無駄であると解説しています。
それでも、大人数や難解な会議では1時間を超えることは仕方がないと思いましたが、
ポイントを聞けば納得できました。
①磨き上げたアジェンダ作成
これは、リーダーが完璧に作り上げる必要があるが、簡単なタイムラインだけでなく中身もしっかり作り込むということ。これによって大幅に短縮できるそうです。
リーダーが「これで!」というものをいかに作り上げるか。
②資料の読み上げは禁止
自分も以前から思っていました。実行している内容なのでここはすぐに納得しました。
会議の前に資料を配って読んでもらうか、その場で5分時間を作ってそれぞれに読み込んでもらうようにしましょう。
③最少人数で開催する(5人以下)
これは確かに、と思いました。
発言しなかった人は次からは呼ばないというのはちょっと厳しいかなと思いましたが、
特に議題に関係が薄く、資料だけを見ればいい人や結果だけを伝えてもらえれば良い人は必要がないですね。
発言もしにくく、時間が長くなるだけですね。
と話しつつも、結論は「会議は無いほうが良い」と締めくくっていました。
まぁ、ホントそうなんですよね。笑
聴く力 第5の習慣
誠心誠意理解したいと思え
こんな言葉から始まった「中田敦彦のYouTube大学」での一部ですね。
この章、とっても心に響きました。明日から実行しようと思った。
自分には娘がいるので例となったエピソードも心に刺さりまくりです。
人の話を聞く時、やってはいけない事がいくつかあります。
❌自叙伝的反応
これは、すぐに「分かる。俺の時はな…」みたいに自分の経験を語り出すこと。
待てと、お前の話は聞いていない。まずは相手の話を全部聞け。
探る、解釈する、評価する、助言する…全て駄目だ!と言います。これも相手の気持ちを置いてけぼりにしてるそうです。
これでは相手が本当に話したい事に到達しません。
⭕️共感
必要なものは心からの共感のみです。
共感にはいくつかあって
繰り返すこと・・・これは△です。
置き換えること・・・これが正解◯
要は、相手の気持ちを言葉にするという事です。
往々にして人のリアクションは早過ぎるそうで、そういう人は信頼されないと言います。
これからは、相手の言葉にはどんな気持ちが隠されているかを考えながら、じっと話しを聞いていこうと思います。
聖書(ユダヤ教)
日本人が一番足りないと言われている宗教知識です。
その中でも、3大1神教の最古であるのはユダヤ教です。
その聖書に書かれているストーリーを数分で読めるよう要点を紹介します。
断片的には聞いたことある話ばかりだと思います。
聖書(旧約聖書)のストーリー
~ アダムの子孫であり選ばれし民ユダヤ人の物語 ~
「光あれ」と、神が世界を作ります。
6日間頑張って作り1日休みました。これが一週間のもとであるそうです。
その後、神は人間を作りました。それがアダムです。
一人では寂しいので、アダムの肋骨からイヴを作り出しました。
アダムとイヴが暮らしている中で、悪い蛇に騙され知恵の実(リンゴ)を食べてしまいます。神から食べてはいけないと言われていたにも関わらず。。。
そして神の怒りを買い、楽園を追放されます。
しばらくして神々は考えました。
「やっぱりこの人間たちは失敗だ。作りなおそう。」
「災害(洪水)で一掃しよう!」
追放されたアダム達の子孫にノアがいました。
危機を察知した彼は、方舟(ノアの方舟)を作り動物たちを一対ずつ乗せて逃げました。
そのノアの子孫にアブラハムという人物がいます。
ユダヤの父と呼ばれています。
このアブラハムがカナンの地(現パレスチナ)に辿り着き、神から啓示を受けます。
「カナンの地を授けよう。」その子孫(ユダヤ人)に至るまでこの地を与えると契約します。
その後、時は一気に流れユダヤ人は当時の最先端の国であるエジプトで奴隷として扱われていました。
耐えかねた当時のユダヤ人代表者であるモーセが
「逃げよう。パレスチナへ戻るのだ!」
と脱出を図ります。
ここで出てくるのが海をパッカーンと2つに割って歩いて逃げるあのシーンです。
海を渡りきったモーセは神から啓示を受けます。石版に書かれたモーセの十戒です。
偶像崇拝禁止などの10個の禁止事項が書かれていました。
しかし、まだパレスチナまでは距離がありました。その上、その地を他部族に支配されていたのです。
ここからがカナンの地の奪還編です。
その地にはゴリアテという巨人がおりとても苦戦をしました。
この巨人ゴリアテを投石で倒したのがダビデ王です。
素っ裸のダビデ像で有名ですね。あれはこの時の石を投げてるシーンをモデルにしているそうです。
ついにカナンの地(エルサレム)に戻ったユダヤ人はそこのイスラエルを建国します。
ダビデ王の後継者であるソロモン王は、モーセの石版を治める神殿を造りました。ソロモン神殿です。
しかし、ローマ帝国に攻められイスラエルを追い出されてしまいます。
そこから、長きにわたるユダヤの迫害がはじまるのです。
「そして、世界の終りが近づいた時、救世主が生まれる。
」
だが、現在もまだその救世主は生まれていない。
と、ここで締めくくられています。
キリスト教ではこの救世主こそがイエスであると考えられていますね。
黒田官兵衛(くろだ かんべえ)
1546年12月22日~1604年4月9日(享年59歳)
出身 播磨国(兵庫県姫路市)
「軍師官兵衛」でNHK大河ドラマの主人公にもなりましたね。
本名は黒田孝高(よしたか)、剃髪後の号は如水といいます。
この方、戦には一度たりとも負けたことがありません。
ですが悲運の武将と呼ばれているんですよね。
生涯
播磨国に生まれた官兵衛は、小寺氏に仕えていました。
幼き頃より書物が好きで、軍記物だけでなく、連歌などの教養も豊かになっていきました。
22歳の頃に家督を継ぐとともに、結婚します。
少数の兵での奇襲戦を得意とし、隣国との戦に勝っていきます。
情報収集も怠っておらず、織田信長が勢力を伸ばし播磨国に来たときは、毛利と組むべしという意見を押しのけ臣従の道を示しました。
ここで羽柴秀吉と出会います。
官兵衛と秀吉との二人三脚での天下取りの始まりです。
本能寺の変で信長が討たれ、うなだれていた秀吉に「ここが天下取りのチャンスですぞ」とアドバイスし中国大返しを実現させ、明智光秀を討ちます。
この後も官兵衛の策はことごとく成功し、秀吉の天下はどんどん近づいていきます。
しかし、秀吉は思いました「この官兵衛という男、頭良すぎる。なぜ自ら天下を目指さないのか」と。
光秀のような謀反が怖くなった秀吉は、官兵衛を少しずつ遠ざけます。
秀吉の事が大好きな官兵衛には、自ら天下を取るなどと考えもしませんでしたが、ある時耳にしてしまいます。
酒の席での出来事です。
ある配下が
「秀吉様が、もしこの世に生まれていなかったら、誰が天下を取ったでしょうね。」
秀吉は答えました。
「徳川家康か黒田官兵衛だろう。」
と。
これはまずいと思った官兵衛は、家督を息子に譲り隠居してしまいます。
自らに天下取りの意思など無いと秀吉に示すためです。
やがて秀吉が死に、徳川家康の時代がやってきます。
天下は石田三成vs徳川家康という2大勢力の戦いでした。
ここまで沈黙を守ってきた官兵衛ですが、恩人信長も、主君秀吉もこの世になく残る余生も短いとなれば、ここで一花咲かせようと決意します。
52歳での天下取りです。
日本を二分するの争いです。決着には時間がかかるはず。その間に九州で戦力をため、勝って疲弊しているところを攻めれば天下は取れる。
このような戦略でした。
九州で勢力を拡大し、順調に準備を進めていましたが、ここで最後の悲運が官兵衛を襲います。
関ヶ原の戦いが半日で終わってしまうのです。
しかも、その要因となった一つに、息子の調略による活躍があったというではありませんか。
意気揚々と帰ってきた息子は、官兵衛に活躍の報告をします。
家康に褒美を手渡されたと言う息子に「その時お前の右手(刀を持つ方)は何をしていた!」と一喝します。
その後は、一切政治に関与せず、隠居生活を送り59歳で死去します。
達磨大師(だるまたいし)
5世紀後半~6世紀前半(享年150歳くらい)
出身 南天竺国
選挙で当選したら目玉を書く、だるまさんがころんだ等で知られるあのだるまさんです。
実在した人物なんですね。
仏教の教えから、禅というものを見出し、中国禅宗の祖と呼ばれています。
生涯
インド王族の3男として生まれました。
3歳の頃に2人の兄たちと宝玉について会話をし、達磨のみが宝玉より正しい教えこそが至高の宝だと答え、これに感動した僧侶は出家をススメました。
やがて王が亡くなると、達磨は「死ぬとどうなるのか」7日間瞑想しましたが答えは出ませんでした。
これをきっかけに出家し、高層のもとで40年もの間厳しい修行を行いました。
師匠の遺言で「自分の死後67年間は国内で仏教を広めよ、その後は中国へ渡れ」と言われていました。
単純計算で、中国に渡る頃には100歳を超えてそうですが、達磨はこれを守ります。
まずは国内で6つに別れていた宗派を一つにまとめあげ、現国王に仏教の大切さを教えます。
こうして達磨の名前はインド国内で轟き渡ります。
そして、100歳を超えた頃中国へ渡ります。
300年前に、中国に仏教は伝わっていましたがいまだに実践しているものはほぼいませんでした。
インドの高層がきたという噂はすぐに広まり、皇帝に王宮へ招待されます。
ここで教えを伝えますが、理解されずに決別してしまいます。
達磨は更に厳しい修行に取り組みます。
自分を見つめ直すために壁に向かい9年間も瞑想を続けたのです。
あまりの苦しさに、表情は厳しく、手足は退化しやがて無くなってしまいます。
これが、日本に伝わっている「だるまさん」ですね。
たどり着いた先は、理屈で議論するよりも座禅を実践することで、直接心理に到達しよう。そういう教えですね。
小ネタ
日本に達磨伝説がいくつか残っています。
聖徳太子と対峙した説です。達磨は宮城県の松島にきて30年間聖徳太子が生まれるのを待ったそうです。
それが待つ島(松島)の元になったと言われます。
だるまの目に黒を入れる風習は、江戸の頃目の書き方が気に入らないと客に言われた商人が、白目のまま販売した結果、意外と好評でそれを続けているのが原型だそうですね。
選挙で使われるのは、仏画になぞらえて開眼(かいげん)を元にしています。
徳川綱吉(とくがわ つなよし)
1646年2月23日~1709年2月19日(享年64歳)
江戸幕府の第5代将軍
「生類憐れみの令」で有名な犬将軍・綱吉です。
マイナスイメージの強い人物ですが、近年の研究で、歴代の将軍の中でもトップクラスに優秀だったのでは?という説が支配的であります。
生涯
3代将軍・家光の4男として江戸城で生まれます。
家光が亡くなると、兄の家綱が後を継ぎ、4代将軍になりますが40歳で死去します。
家綱には子が無く、他の兄たちも生存していなかったため、綱吉が5代将軍に任ぜられます。
将軍になると、さっそく4代将軍である兄の時代に下落していた権威を取り戻しにかかります。
まずは能力の高い人物を大老に任命し、諸藩の政治を監査させます。
そして、勘定吟味役を設置し、身分が低くても有能であれば登用していくように変えました。
また、いまだに残る戦国時代の殺伐とした気風を排除し、徳を重んじる文治政治を推進します。
学問の中心として湯島聖堂を建立するなどし、学問を大切にしました。
これは、父である家光が儒学を叩き込んでいたおかげだったと言われています。
これにより、新井白石など優秀な学者を排出するきっかけにもなりました。
このように、ここまでの綱吉は非常に優秀で、善政として天和の治(てんなのち)と称えられています。
しかしここから先の政治が、後の世で有名になってしまいます。
「生類憐れみの令」ですが、実は一つの政策ではありません。
最初は極々小さな条例程度でした。
子供が生まれない綱吉が、戌(いぬ)年のこともあって、将軍が通行する道であっても犬は自由に放してて良い。というものでした。
条例がゆるすぎて誰も守らなかったんですね。
そして、そこから徐々にエスカレートしていき、24年間で135回も改正され、最後には貝や虫でさえ殺してはいけないという異常事態にたどり着きます。
64歳で綱吉が死去した後は、すぐに「生類憐れみの令」は無かったことにされます。
しかし、一部の捨て子や病人の保護などは継続されました。
すべてが「悪」という訳でもなかったみたいですね。
小ネタ
七五三はもともと貴族のなかでの慣例行事でした。
しかし庶民に慕われていた(就任当初はですが・・・)綱吉が、長男の健やかな成長を願って行ったことで一般庶民にも広まり、今に至っていると言われています。
ソクラテス
紀元前470年~399年
出身 アテナイ(ギリシャ共和国アテネの古名)
「無知の知」で知られる哲学会の巨人ですね。
彼自身は文字を一つも残してはいないけれど、弟子であるプラトン達が書き残す著書を通じ知られています。
人物
アテナイで生まれた彼は、背は低く、太り気味であり、鼻は上を向き、いつも無愛想な顔をしていたとされています。
当時のギリシャには「ソフィスト」と呼ばれる頭の良い人たちがいました。
ソフィスト達は、弁論が上手くどんどん出世していきます。
人々は、ソフィスト達に学ぼうと家庭教師を頼んだりしていました。
そのことが、ソフィストであれば何でも知っている。と増長させていきました。
しかしソクラテスは、ここに大きく反論していました。
「言葉巧みに相手を論破していく弁論では真実にたどり着けない。まやかしである。」
「真実を求めるのならば対話しかない。」
このように言い続けていました。
ソクラテスはこの考えを元に、目にとまるソフィスト達に次々と議論を投げつけていきました。
これは論破しマウントをとるためではなく、ソフィストたちも知らないことがあるだろう?と認めさせるためです。
自分は知らない事があると認識しているだけで、なんでも知っていると思っている人より優位だと考えていました。
これが現代で言われる「無知の知」です。
歯に衣着せぬ物言いのソクラテスは、相手が権力者であろうが容赦しませんでした。
その事が原因で、小さな罪で死罪を言い渡されてしまいます。
自らの過ちを認めれば無罪となる算段が大きかったにも関わらず、信念を裏切ることは出来ないと、死罪を受け入れてしまいました。70歳くらいでした。
強い勇気と使命感を持った人物であることがわかりますね。
対話によって物事の理解を深めていくことは、現代社会においても非常に重要なことですね。
紀元前の、この時代から気付いていたソクラテスは、間違いなく哲学会の巨人でした。
菅原道真(すがわらのみちざね)
845年8月1日~903年3月26日(享年59歳)
出身 奈良県奈良市
「学問の神様」菅原道真。
しかし、実在の人物が天神様と呼ばれ、各地に天満神社が建てられ祀られる理由は何でしょうか?
生涯
菅原家は代々学者の家柄です。
三男として生まれた道真も優秀な頭脳を持っており、神童と呼ばれておりました。
難関試験と呼ばれるものに次々と一発合格して行き、どんどん出世していきます。
その頃、朝廷の中枢で絶大な権力を持っていたのが藤原家でした。
道真は、言うべきことは言ってしまう性格でしたので、天皇に次ぐ権力者であった藤原基経にも堂々と意見を言ってしまうのです。
その事が原因で、讃岐の国へと左遷させられてしまいます。
ここで道真は、疲弊する地方の農民と直に触れる機会を得ます。
讃岐国で新たな経験を得て成長している道長に、中央での揉め事が耳に入ってきます。
どんどん横暴になる藤原基経に宇多天皇が困っていると。道長はこれは良くないと進言するため平安京に向かいます。
この進言を聞いた宇多天皇は、道長の冷静で公平な態度を高く評価し、以降重用するようになります。
まだ政治の実権は藤原基経が握っていましたが、891年に死去します。
道長に大きなチャンスが巡ってきたと思われましたが、基経には優秀な息子がいました。
それが菅原道真のライバルと呼ばれる藤原時平です。
ここから、菅原道真vs藤原時平が始まります。
まずは道真が、時平の経験がまだ浅いうちに、朝廷の要職に菅原家の親族を起用していきます。
これに対し時平は、道真を遣唐使として派遣させようとします。
当時の遣唐使といえば、優秀な人物が選ばれるものでしたが、難しい航海のため半数以上は命を落としてしまう危険なものでした。
道真は知恵を絞り、上手い討論で遣唐使の廃止を勝ち取ります。
しかし、道真の味方であった宇多天皇が突如隠居してしまいます。
これにより、力を盛り返した藤原時平は、学者という身分でありながら高官である道真が「天皇の地位を狙っている」と噂を流し、太宰府へ左遷することに成功します。
要職にあった菅原家のメンバーもすべて解任されてしまいます。
太宰府での生活は酷いもので、家はボロボロ、食事も満足に与えられない状態でした。
まず子供が病死し、ついには道真も栄養失調で亡くなってしまいます。
道真が太宰府で亡くなったあとに、不思議なことが次々に起こります。
道長左遷に関わった者たちが変死を遂げていくのです。
「藤原時平が39歳で急死」「道真の監視役だった貴族数人が落雷で死亡」噂を信じで左遷を決定した「醍醐天皇は体調を崩しそのまま崩御」。
飢饉や日照りまで起こるようになりました。
人々はこれを道真の祟りだと考え、神社を建て、怨霊を鎮めることにしました。
道長が天神様と呼ばれるようになったのは、落雷事件がきっかけです。
小ネタ
平安時代が終わることには、怨霊騒ぎは沈静化し、「道真は頭脳明晰で人々に親しまれていた人物」というものがだけ残ります。
各地の道真が祀られている天満宮には、頭の良い菅原道真にあやかろうと皆が崇めるようになります。
学問の神様と呼ばれているのは、このあたりに理由があったのですね。
空海(くうかい)
774年~835年4月22日(享年62歳)
出身 香川県善通寺市
空海は弘法大師と呼ばれ、書の達人として「弘法も筆の誤り」「弘法筆を選ばず」ということわざにもなっていますね。
各地に伝説を残す空海は、いったいどういった生涯だったのでしょうか。
生涯
空海は讃岐国で郡司である父親の次男として生まれました。
幼少の頃から神童と呼ばれ、学問において地元では敵なしでした。
さらなる知識をもとめ11歳の時、京へ上ります。
時代は、奈良時代の末期です。
その頃の世の中は、強くなりすぎた仏教の僧が政治へ口出しするようになっていました。
危機感を覚えた朝廷は、京都へ遷都する時代の変わり目でした。
平城京と呼ばれた地で、神童・空海は多くの知識を蓄えていきました。
論語、孝経、史伝、文章。大学では明経道、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びました。
エリート官僚になるべく勉強していた空海ですが、18歳の頃、仏教に出会い徐々にのめり込んでいきます。
各地で山岳修行も行い、それを知った父親は怒りましたが24歳の時、勝手に出家してしまいます。
31歳の時、転機が訪れます。
朝廷は腐敗した仏教を立て直すべく、遣唐使として唐に渡り本来の仏教を学ぶ人物を探していました。
天才として名が広まっていた空海に白羽の矢が止まります。
当時の船まだまだ発達しておらず、唐への航海は命懸けでした。
なんとか唐へ到着した空海(同じ船には年上の最澄もいました)は、長安で新たな学問を学びます。
本来20年の予定だった留学は、あまりの天才ぶりを発揮し1年ほどでクリアしてしまいました。土木技術や薬学までも学び2年で帰国してしまいます。
膨大な知識と書物を持って帰った空海でしたが、20年のところを2年で帰ってきたため朝廷は困って入京を拒みました。
やがて入京が許された空海は、最新の文化を日本にもたらします。
様々な重要な国の仕事を任されるようになり異例の出世を遂げていきました。
43歳で、高野山を開くことを天皇に許されます。
また、農民のためにため池を作るなど、様々な社会福祉事業も行いました。
真言密教の後継者育成にも努め、828年には日本最初の庶民教育の学校を開設します。
835年に亡くなった空海は、その後の921年に醍醐天皇から「弘法大師」の号が贈られます。
小ネタ
真言宗の開祖となった空海は、今でも高野山奥の院の霊廟で禅定を続けているとされています。
大久保利通(おおくぼ としみち)
1830年9月26日~1878年5月14日(享年47歳)
出身 薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市)
改名歴 大久保正助→大久保一蔵→大久保利通
「維新の三傑」と称され内閣制度発足前の明治政界のリーダー(実質上の首相)でした。
しかし、世間のイメージはあまり良いとは言えず「親友の西郷隆盛を殺した冷徹な政治家」という一面だけが広まっているのではないでしょうか。
とんでもない。西郷と大久保は、最後まで海より深い愛で繋がれていたのですよ。
生涯
薩摩藩の下級武士の子として生まれ、幼馴染には西郷隆盛らがいました。
武術は苦手だった代わりに、討論や読書などの学問はトップでした。
20歳の頃に藩のお家騒動に巻き込まれ謹慎処分を受けますが、藩主が島津斉彬に変わるとともに登用され、徐々に若き藩士のリーダー的存在になっていくのです。
斉彬が死に、弟の久光の代になると、知恵と得意の討論を駆使し信頼を得ていきます。
大きなことを成すためには、権力は必要であり、そのためには手段は選ばぬ。このような考えが冷徹な政治家というイメージを作ったのでしょうね。
その得た権力で、島流しに会った西郷隆盛を2度も救っています。
大政奉還で江戸幕府が倒れ明治維新を迎えると、政治の中心人物として、版籍奉還、廃藩置県など明治政府の中央集権体制確立を目指していきます。
大久保は、一気に中央集権へ移行しようとすると、大きな反発があることを過去の歴史(中国の秦王朝や大化の改新後の天智天皇)より知っていました。
しかし自らを「冷徹な政治家」として演ずることで、乗り切っていくのです。
その後も、諸外国を見聞するなど、冷徹な政治力はどんどん磨かれていきます。
このあたりで「情の人」西郷隆盛と意見が合わなくなってしまいます。
そして、西南戦争へ。
心では西郷の気持ちが分かる大久保は、最後の最後まで西郷を許す方法を考えました。
しかし、自らの立場や日本の将来を考えると、答えは出せなかったのです。
なんとか前を向き、自らの使命を全うしようとした翌年の1878年、暗殺されてしまいます。(紀尾井坂の変)
小ネタ
暗殺の声明文の中に「国の金を無駄遣いしていてけしからん」こいう項目がありましたが、事実は大きく違っています。
大久保は、多くの公共事業を成すために私財を投げ売って投資していたのです。
それでも足らず現在の価値にして1億近い借金までありました。
しかし、大久保の死後、その借金を返せと言ってきた人はいなかったそうです。
このことからも、大久保のがどのような人物だったのかが分かりますね。
織田信長(おだ のぶなが)
1534年5月12日~1582年6月2日(享年48歳)
出身 尾張(愛知県西部)
「天下布武」を唱え、天下統一直前までいった戦国三英傑の一人です。
「大うつけ者」「第六天魔王」と多くの異名を持つ信長ですが、どんな思いで戦国の世を駆け抜けていったのでしょうね。
生涯
尾張国に生まれ、幼名を吉法師と言いました。
父の死により18歳で家督を継ぎますが、粗暴な性格のため「大うつけ者」と呼ばれていました。
そこで、傅役の平手政秀は、自らの死を持って信長を諌めるのです。
うつけ者のふりをしていた信長ですが、平手政秀の死はショックでした。
そしてここから信長の本気モードが始まるのです。
信長の反逆を企てた弟の信行を返り討ちにし、
翌年には有名な「桶狭間の戦い」で今川義元を破ります。
その後も勢いに乗り斎藤家の稲葉山城を落とし、「岐阜城」と改名ししばらくの拠点とします。
ここで「天下布武」を唱えます。
「天下布武」と聞くと武力をもって天下を治めるという意味を想像しがちです。
しかし、近年の研究では足利将軍家を中心とした平和を徳を持って作る、という意味だったと解釈されているようですね。
岐阜城では、国の発展には商業の発展が不可欠であると考え、
「楽市・楽座」をしき、税の減免などで商人の行き来を促し、飛躍的に発展させていきました。
ここから京都に向かい西進します。
「比叡山の焼き討ち」はこのころの出来事です。
抵抗する僧兵だけでなく、女子供も見せしめとして皆殺しにしてしまう事件ですね。
仏教は古くから権力を持ち、天皇家に力が及ぶまでになった時期もありました。
この時代でもまだ力は強く、上層部の僧は、横暴で乱れた生活をしていたようです。
信長の血も涙もない部分だけが取りだたされますが、それなりの理由もあったようですね。
浅井・朝倉軍を家康との共闘で攻略(姉川の戦い)し、近江に「安土城」を建設して、ここを次の拠点とします。
安土城は現存していませんが、守るための城というよりは、魅せるための城だったようです。
西洋の文化や黄金を多く取り入れた豪華絢爛な作りだったようですね。
その後、畿内を制圧し、西進して来た武田家を「長篠の戦い」で破り、長年悩まされてきた本願寺の一向宗も降伏させました。
長篠の戦いでは、初めて大量の鉄砲が実践で使われた戦として有名ですね。
ほぼ日本を手中にした信長は、最後の締めとして中国地方の毛利攻めにかかります。
この時、京都の本願寺で休息していたところを明智光秀の謀反により襲撃を受け自刃し生涯を閉じてしまいます。
「是非もなし」。襲撃しているのが光秀だと分かった時の言葉です。
光秀が謀反を起こしたのなら、逃げ道はないだろうと悟ったわけです。
光秀への評価の高さが伺えますね。
「本能寺の変」は、今でも様々な説があり、秀吉&千利休共謀説などはなかなか面白いです。
小ネタ
信長は、茶器を褒美として家臣に分け与えていました。
これは、過去の歴史から学んだ知恵で土地を褒美で与え続けるのは限界がある。
茶器ならばいくらでも作れるし、独占すれば価値も上げ放題である、という考えです。
この発想は的中し、城よりも茶器、命よりも茶器、などと考える大名も数多くいたそうです。
価格:4,670円 |
北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)
1853年1月29日~1931年6月13日(享年78歳)
出身 熊本県阿蘇郡小国町
研究分野 細菌学
令和6年(2024年)より新紙幣千円札の顔になる人物です。
「日本の細菌学の父」と呼ばれ、ペスト菌の発見、破傷風の治療法の開発など感染症医学の発展に大きく貢献しました。
人命を救ったという意味では、この人の右に出るものはいないのではないでしょうか。
世界最悪と言われた感染症です。発見されていなかったら2~3億人は死んでいたことでしょう。
生涯
幕末、肥後国に生まれた北里柴三郎は厳しい躾を受けて育ちます。
コレラ(別名・虎狼狸 人がコロリコロリと死んでいくのが由来)が大流行した時代であり、北里も2人の弟をコレラで亡くしています。
1874年(明治7年)に東京医学校(現・東京大学医学部)に入学します。
在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信し、予防医学に生涯をかけることを決意するのです。
医者になれば3倍の給料がもらえたが、研究者への道を選びます。
1886年(明治19年)からの6年間、ドイツに留学し、病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホに師事し研究に励みます。
コレラ菌を発見したのはコッホですが、北里はコレラ菌の「酸に弱い」のを発見、消毒法に応用されました。そして感染ルートの詳細な特定にも成功したのです。
さらに、破傷風菌の純粋培養にも成功、その翌年には「血清療法」という伝染病の治療法を発見します。
「血清療法」というのは、動物に菌を投入し、抗体が出来たものを取り出し患者に投与するというものです。
その後、日本に帰国し研究所を設立しますが、周辺の住民から伝染病を持ち込まれることを恐れ立ち退き運動を起こされてしまうのです。
さらに、日本医学界からも血清療法は危険だと異論を唱えられます。
ここで北里は、「血清療法」の有用性を示すために人体への投与に踏み切ります。
その相手は「自分の娘」でした。
娘は見事全快し、世間に証明することが出来ました。
北里のところには、治療を求める患者が殺到するようになります。
しかし、血清の生産には時間がかかり注射が足りなくなります。
これを解決するためには、まずは原因を止めることが先決であると考えました。
当時の家庭の多くは井戸と便所が隣接していました。
これらが感染拡大の原因となっていることが分かり、上下水道の整備を訴えましたが、政府には相手にされませんでした。
当時の予算は、大半を軍費にあてられていたのです。
ところが隣の中国で感染症が大問題となります。次々に隣国に拡大していき、ついには日本にも驚異が迫ってきました。
これが致死率90%と言われる「ペスト」です。
政府から北里に白羽の矢が立ち、当時は未知の病原菌だったペストを研究するべく中国へ行きます。
努力の末、ついに世界で初めてペスト菌を発見します。
日本に戻り研究を続け、血清も完成させます。
感染症の予防に関する法改正も行い、大正15年を最後にペスト患者はひとりも出ていません。
小ネタ
北里が作った北里研究所には野口英世が研究員として勤務しており師弟関係でありました。
門下生からは「ドンネル先生」(雷おやじ)と呼ばれ親しまれていたそうですね。