北里柴三郎(きたざと しばさぶろう)
1853年1月29日~1931年6月13日(享年78歳)
出身 熊本県阿蘇郡小国町
研究分野 細菌学
令和6年(2024年)より新紙幣千円札の顔になる人物です。
「日本の細菌学の父」と呼ばれ、ペスト菌の発見、破傷風の治療法の開発など感染症医学の発展に大きく貢献しました。
人命を救ったという意味では、この人の右に出るものはいないのではないでしょうか。
世界最悪と言われた感染症です。発見されていなかったら2~3億人は死んでいたことでしょう。
生涯
幕末、肥後国に生まれた北里柴三郎は厳しい躾を受けて育ちます。
コレラ(別名・虎狼狸 人がコロリコロリと死んでいくのが由来)が大流行した時代であり、北里も2人の弟をコレラで亡くしています。
1874年(明治7年)に東京医学校(現・東京大学医学部)に入学します。
在学中に「医者の使命は病気を予防することにある」と確信し、予防医学に生涯をかけることを決意するのです。
医者になれば3倍の給料がもらえたが、研究者への道を選びます。
1886年(明治19年)からの6年間、ドイツに留学し、病原微生物学研究の第一人者、ローベルト・コッホに師事し研究に励みます。
コレラ菌を発見したのはコッホですが、北里はコレラ菌の「酸に弱い」のを発見、消毒法に応用されました。そして感染ルートの詳細な特定にも成功したのです。
さらに、破傷風菌の純粋培養にも成功、その翌年には「血清療法」という伝染病の治療法を発見します。
「血清療法」というのは、動物に菌を投入し、抗体が出来たものを取り出し患者に投与するというものです。
その後、日本に帰国し研究所を設立しますが、周辺の住民から伝染病を持ち込まれることを恐れ立ち退き運動を起こされてしまうのです。
さらに、日本医学界からも血清療法は危険だと異論を唱えられます。
ここで北里は、「血清療法」の有用性を示すために人体への投与に踏み切ります。
その相手は「自分の娘」でした。
娘は見事全快し、世間に証明することが出来ました。
北里のところには、治療を求める患者が殺到するようになります。
しかし、血清の生産には時間がかかり注射が足りなくなります。
これを解決するためには、まずは原因を止めることが先決であると考えました。
当時の家庭の多くは井戸と便所が隣接していました。
これらが感染拡大の原因となっていることが分かり、上下水道の整備を訴えましたが、政府には相手にされませんでした。
当時の予算は、大半を軍費にあてられていたのです。
ところが隣の中国で感染症が大問題となります。次々に隣国に拡大していき、ついには日本にも驚異が迫ってきました。
これが致死率90%と言われる「ペスト」です。
政府から北里に白羽の矢が立ち、当時は未知の病原菌だったペストを研究するべく中国へ行きます。
努力の末、ついに世界で初めてペスト菌を発見します。
日本に戻り研究を続け、血清も完成させます。
感染症の予防に関する法改正も行い、大正15年を最後にペスト患者はひとりも出ていません。
小ネタ
北里が作った北里研究所には野口英世が研究員として勤務しており師弟関係でありました。
門下生からは「ドンネル先生」(雷おやじ)と呼ばれ親しまれていたそうですね。