織田信長(おだ のぶなが)
1534年5月12日~1582年6月2日(享年48歳)
出身 尾張(愛知県西部)
「天下布武」を唱え、天下統一直前までいった戦国三英傑の一人です。
「大うつけ者」「第六天魔王」と多くの異名を持つ信長ですが、どんな思いで戦国の世を駆け抜けていったのでしょうね。
生涯
尾張国に生まれ、幼名を吉法師と言いました。
父の死により18歳で家督を継ぎますが、粗暴な性格のため「大うつけ者」と呼ばれていました。
そこで、傅役の平手政秀は、自らの死を持って信長を諌めるのです。
うつけ者のふりをしていた信長ですが、平手政秀の死はショックでした。
そしてここから信長の本気モードが始まるのです。
信長の反逆を企てた弟の信行を返り討ちにし、
翌年には有名な「桶狭間の戦い」で今川義元を破ります。
その後も勢いに乗り斎藤家の稲葉山城を落とし、「岐阜城」と改名ししばらくの拠点とします。
ここで「天下布武」を唱えます。
「天下布武」と聞くと武力をもって天下を治めるという意味を想像しがちです。
しかし、近年の研究では足利将軍家を中心とした平和を徳を持って作る、という意味だったと解釈されているようですね。
岐阜城では、国の発展には商業の発展が不可欠であると考え、
「楽市・楽座」をしき、税の減免などで商人の行き来を促し、飛躍的に発展させていきました。
ここから京都に向かい西進します。
「比叡山の焼き討ち」はこのころの出来事です。
抵抗する僧兵だけでなく、女子供も見せしめとして皆殺しにしてしまう事件ですね。
仏教は古くから権力を持ち、天皇家に力が及ぶまでになった時期もありました。
この時代でもまだ力は強く、上層部の僧は、横暴で乱れた生活をしていたようです。
信長の血も涙もない部分だけが取りだたされますが、それなりの理由もあったようですね。
浅井・朝倉軍を家康との共闘で攻略(姉川の戦い)し、近江に「安土城」を建設して、ここを次の拠点とします。
安土城は現存していませんが、守るための城というよりは、魅せるための城だったようです。
西洋の文化や黄金を多く取り入れた豪華絢爛な作りだったようですね。
その後、畿内を制圧し、西進して来た武田家を「長篠の戦い」で破り、長年悩まされてきた本願寺の一向宗も降伏させました。
長篠の戦いでは、初めて大量の鉄砲が実践で使われた戦として有名ですね。
ほぼ日本を手中にした信長は、最後の締めとして中国地方の毛利攻めにかかります。
この時、京都の本願寺で休息していたところを明智光秀の謀反により襲撃を受け自刃し生涯を閉じてしまいます。
「是非もなし」。襲撃しているのが光秀だと分かった時の言葉です。
光秀が謀反を起こしたのなら、逃げ道はないだろうと悟ったわけです。
光秀への評価の高さが伺えますね。
「本能寺の変」は、今でも様々な説があり、秀吉&千利休共謀説などはなかなか面白いです。
小ネタ
信長は、茶器を褒美として家臣に分け与えていました。
これは、過去の歴史から学んだ知恵で土地を褒美で与え続けるのは限界がある。
茶器ならばいくらでも作れるし、独占すれば価値も上げ放題である、という考えです。
この発想は的中し、城よりも茶器、命よりも茶器、などと考える大名も数多くいたそうです。
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