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大久保利通(おおくぼ としみち)

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1830年9月26日~1878年5月14日(享年47歳)

出身 薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市)

改名歴 大久保正助→大久保一蔵→大久保利通

 

「維新の三傑」と称され内閣制度発足前の明治政界のリーダー(実質上の首相)でした。

しかし、世間のイメージはあまり良いとは言えず「親友の西郷隆盛を殺した冷徹な政治家」という一面だけが広まっているのではないでしょうか。

とんでもない。西郷と大久保は、最後まで海より深い愛で繋がれていたのですよ。

 

生涯

薩摩藩の下級武士の子として生まれ、幼馴染には西郷隆盛らがいました。

武術は苦手だった代わりに、討論や読書などの学問はトップでした。

 

20歳の頃に藩のお家騒動に巻き込まれ謹慎処分を受けますが、藩主が島津斉彬に変わるとともに登用され、徐々に若き藩士のリーダー的存在になっていくのです。

斉彬が死に、弟の久光の代になると、知恵と得意の討論を駆使し信頼を得ていきます。

 

大きなことを成すためには、権力は必要であり、そのためには手段は選ばぬ。このような考えが冷徹な政治家というイメージを作ったのでしょうね。

その得た権力で、島流しに会った西郷隆盛を2度も救っています。

 

 

大政奉還で江戸幕府が倒れ明治維新を迎えると、政治の中心人物として、版籍奉還廃藩置県など明治政府の中央集権体制確立を目指していきます。

大久保は、一気に中央集権へ移行しようとすると、大きな反発があることを過去の歴史(中国の秦王朝や大化の改新後の天智天皇)より知っていました。

しかし自らを「冷徹な政治家」として演ずることで、乗り切っていくのです。

 

その後も、諸外国を見聞するなど、冷徹な政治力はどんどん磨かれていきます。

このあたりで「情の人」西郷隆盛と意見が合わなくなってしまいます。

 

そして、西南戦争へ。

心では西郷の気持ちが分かる大久保は、最後の最後まで西郷を許す方法を考えました。

しかし、自らの立場や日本の将来を考えると、答えは出せなかったのです。

 

なんとか前を向き、自らの使命を全うしようとした翌年の1878年、暗殺されてしまいます。(紀尾井坂の変)

 

小ネタ

暗殺の声明文の中に「国の金を無駄遣いしていてけしからん」こいう項目がありましたが、事実は大きく違っています。

大久保は、多くの公共事業を成すために私財を投げ売って投資していたのです。

それでも足らず現在の価値にして1億近い借金までありました。

しかし、大久保の死後、その借金を返せと言ってきた人はいなかったそうです。

このことからも、大久保のがどのような人物だったのかが分かりますね。