空海(くうかい)
774年~835年4月22日(享年62歳)
出身 香川県善通寺市
空海は弘法大師と呼ばれ、書の達人として「弘法も筆の誤り」「弘法筆を選ばず」ということわざにもなっていますね。
各地に伝説を残す空海は、いったいどういった生涯だったのでしょうか。
生涯
空海は讃岐国で郡司である父親の次男として生まれました。
幼少の頃から神童と呼ばれ、学問において地元では敵なしでした。
さらなる知識をもとめ11歳の時、京へ上ります。
時代は、奈良時代の末期です。
その頃の世の中は、強くなりすぎた仏教の僧が政治へ口出しするようになっていました。
危機感を覚えた朝廷は、京都へ遷都する時代の変わり目でした。
平城京と呼ばれた地で、神童・空海は多くの知識を蓄えていきました。
論語、孝経、史伝、文章。大学では明経道、春秋左氏伝、毛詩、尚書などを学びました。
エリート官僚になるべく勉強していた空海ですが、18歳の頃、仏教に出会い徐々にのめり込んでいきます。
各地で山岳修行も行い、それを知った父親は怒りましたが24歳の時、勝手に出家してしまいます。
31歳の時、転機が訪れます。
朝廷は腐敗した仏教を立て直すべく、遣唐使として唐に渡り本来の仏教を学ぶ人物を探していました。
天才として名が広まっていた空海に白羽の矢が止まります。
当時の船まだまだ発達しておらず、唐への航海は命懸けでした。
なんとか唐へ到着した空海(同じ船には年上の最澄もいました)は、長安で新たな学問を学びます。
本来20年の予定だった留学は、あまりの天才ぶりを発揮し1年ほどでクリアしてしまいました。土木技術や薬学までも学び2年で帰国してしまいます。
膨大な知識と書物を持って帰った空海でしたが、20年のところを2年で帰ってきたため朝廷は困って入京を拒みました。
やがて入京が許された空海は、最新の文化を日本にもたらします。
様々な重要な国の仕事を任されるようになり異例の出世を遂げていきました。
43歳で、高野山を開くことを天皇に許されます。
また、農民のためにため池を作るなど、様々な社会福祉事業も行いました。
真言密教の後継者育成にも努め、828年には日本最初の庶民教育の学校を開設します。
835年に亡くなった空海は、その後の921年に醍醐天皇から「弘法大師」の号が贈られます。
小ネタ
真言宗の開祖となった空海は、今でも高野山奥の院の霊廟で禅定を続けているとされています。