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菅原道真(すがわらのみちざね)

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845年8月1日~903年3月26日(享年59歳)

出身 奈良県奈良市

 

「学問の神様」菅原道真。

しかし、実在の人物が天神様と呼ばれ、各地に天満神社が建てられ祀られる理由は何でしょうか?

 

生涯

菅原家は代々学者の家柄です。

三男として生まれた道真も優秀な頭脳を持っており、神童と呼ばれておりました。

難関試験と呼ばれるものに次々と一発合格して行き、どんどん出世していきます。

 

その頃、朝廷の中枢で絶大な権力を持っていたのが藤原家でした。

道真は、言うべきことは言ってしまう性格でしたので、天皇に次ぐ権力者であった藤原基経にも堂々と意見を言ってしまうのです。

 

その事が原因で、讃岐の国へと左遷させられてしまいます。

 

ここで道真は、疲弊する地方の農民と直に触れる機会を得ます。

讃岐国で新たな経験を得て成長している道長に、中央での揉め事が耳に入ってきます。

 

どんどん横暴になる藤原基経に宇多天皇が困っていると。道長はこれは良くないと進言するため平安京に向かいます。

この進言を聞いた宇多天皇は、道長の冷静で公平な態度を高く評価し、以降重用するようになります。

 

まだ政治の実権は藤原基経が握っていましたが、891年に死去します。

道長に大きなチャンスが巡ってきたと思われましたが、基経には優秀な息子がいました。

それが菅原道真のライバルと呼ばれる藤原時平です。

 

ここから、菅原道真vs藤原時平が始まります。

まずは道真が、時平の経験がまだ浅いうちに、朝廷の要職に菅原家の親族を起用していきます。

これに対し時平は、道真を遣唐使として派遣させようとします。

当時の遣唐使といえば、優秀な人物が選ばれるものでしたが、難しい航海のため半数以上は命を落としてしまう危険なものでした。

道真は知恵を絞り、上手い討論で遣唐使の廃止勝ち取ります。

 

しかし、道真の味方であった宇多天皇が突如隠居してしまいます。

これにより、力を盛り返した藤原時平は、学者という身分でありながら高官である道真が「天皇の地位を狙っている」と噂を流し、太宰府へ左遷することに成功します。

要職にあった菅原家のメンバーもすべて解任されてしまいます。

 

太宰府での生活は酷いもので、家はボロボロ、食事も満足に与えられない状態でした。

まず子供が病死し、ついには道真も栄養失調で亡くなってしまいます。

 

道真が太宰府で亡くなったあとに、不思議なことが次々に起こります。

道長左遷に関わった者たちが変死を遂げていくのです。

「藤原時平が39歳で急死」「道真の監視役だった貴族数人が落雷で死亡噂を信じで左遷を決定した「醍醐天皇は体調を崩しそのまま崩御」。

飢饉日照りまで起こるようになりました。

 

人々はこれを道真の祟りだと考え、神社を建て、怨霊を鎮めることにしました。

道長が天神様と呼ばれるようになったのは、落雷事件がきっかけです。

 

小ネタ

平安時代が終わることには、怨霊騒ぎは沈静化し、「道真は頭脳明晰で人々に親しまれていた人物」というものがだけ残ります。

各地の道真が祀られている天満宮には、頭の良い菅原道真にあやかろうと皆が崇めるようになります。

学問の神様と呼ばれているのは、このあたりに理由があったのですね。