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千利休(せんのりきゅう)

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1522年~1591年2月28日(享年69歳)

出身 和泉国 堺(今の大阪府)

名・号 田中与四郎 → 千宗易 → 千利休

 

天下一の茶人、わび茶の完成者。『茶聖』と呼ばれた人物ですね。

茶の湯だけでなく、信長、秀吉と二人の天下人の政治顧問としても多大な功績を残しています。

力自慢の武将をも投げ飛ばす、180cm以上の大男だったそうです。

 

生涯

堺の魚問屋「ととや」に生まれます。

当時の堺は商人の街で、大名に支配を許さず、独立した国のようでした。

 

17歳の頃、茶の湯を学び始め、品位や教養を身に着けていきました。

「侘び茶」と出会ったのもこの頃です。

 

22歳で茶会を主催します。これが記録に残る最初の利休の茶会です。

早くに父を無くし(19歳の頃)跡取りとなった利休は、商才や茶の湯の才を発揮し堺を代表する人物となっていきます。

 

46歳の頃、京都を支配した織田信長が堺に目をつけます。

茶器の収集家として有名だった信長は、その目利き役として利休を重宝します。

この頃から、茶の湯の筆頭者として、世間に認められてきたのです。

 

当時、茶の湯は今では想像つかないくらい一大カルチャーとして広まっていて、名物と呼ばれる茶器は、城一つと交換してもお釣りがくるものまでありました。

中には一国を買えるとまで言われたものもあるとか・・・。

茶器の価値を引き上げていったのも利休でした。

 

信長の死後は秀吉に仕え、ここでさらに大きな影響力をもつ人物となっていきます。

大名たちは、こぞって利休に相談したり、茶の湯の教えを請うようになり、秀吉より影響力があるのではないかと言われていました。

このことが秀吉の恨みを買い、69歳のときに切腹させられます。

 

黒こそが至高であり、無駄を極限まで省いた侘びを信条とした利休は、派手で黄金を好む秀吉と合わなかったのです。

秀吉に「口先だけでもいいから考えを変えろ、そうすれば命は助ける」とまで言わせたが、最後まで意思を貫き通したそうです。

 

小ネタ

秀吉のエピソードによく出てくる「黄金の茶室」も利休の発案ですね。

実はこの「黄金の茶室」は組み立て式であり、持ち運びが可能な部屋だったのです。

普通の人には思いつかないようなアイデアも、利休にはたくさんありました。

でも、ほんとは「漆黒の茶室」にしたかったでしょうね。