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黒田官兵衛(くろだ かんべえ)

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1546年12月22日~1604年4月9日(享年59歳)

出身 播磨国(兵庫県姫路市)

 

「軍師官兵衛」でNHK大河ドラマの主人公にもなりましたね。

本名は黒田孝高(よしたか)、剃髪後の号は如水といいます。

この方、戦には一度たりとも負けたことがありません

ですが悲運の武将と呼ばれているんですよね。

 

生涯

播磨国に生まれた官兵衛は、小寺氏に仕えていました。

幼き頃より書物が好きで、軍記物だけでなく、連歌などの教養も豊かになっていきました。

22歳の頃に家督を継ぐとともに、結婚します。

 

少数の兵での奇襲戦を得意とし、隣国との戦に勝っていきます。

情報収集も怠っておらず、織田信長が勢力を伸ばし播磨国に来たときは、毛利と組むべしという意見を押しのけ臣従の道を示しました。

ここで羽柴秀吉と出会います。

官兵衛と秀吉との二人三脚での天下取りの始まりです。

本能寺の変で信長が討たれ、うなだれていた秀吉に「ここが天下取りのチャンスですぞ」とアドバイスし中国大返しを実現させ、明智光秀を討ちます。

 

この後も官兵衛の策はことごとく成功し、秀吉の天下はどんどん近づいていきます。

しかし、秀吉は思いました「この官兵衛という男、頭良すぎる。なぜ自ら天下を目指さないのか」と。

光秀のような謀反が怖くなった秀吉は、官兵衛を少しずつ遠ざけます

秀吉の事が大好きな官兵衛には、自ら天下を取るなどと考えもしませんでしたが、ある時耳にしてしまいます。

酒の席での出来事です。

ある配下が

「秀吉様が、もしこの世に生まれていなかったら、誰が天下を取ったでしょうね。」

秀吉は答えました。

「徳川家康か黒田官兵衛だろう。」

と。

これはまずいと思った官兵衛は、家督を息子に譲り隠居してしまいます。

自らに天下取りの意思など無いと秀吉に示すためです。

 

やがて秀吉が死に、徳川家康の時代がやってきます。

天下は石田三成vs徳川家康という2大勢力の戦いでした。

ここまで沈黙を守ってきた官兵衛ですが、恩人信長も、主君秀吉もこの世になく残る余生も短いとなれば、ここで一花咲かせようと決意します。

52歳での天下取りです。

 

日本を二分するの争いです。決着には時間がかかるはず。その間に九州で戦力をため、勝って疲弊しているところを攻めれば天下は取れる。

このような戦略でした。

 

九州で勢力を拡大し、順調に準備を進めていましたが、ここで最後の悲運が官兵衛を襲います。

関ヶ原の戦いが半日で終わってしまうのです。

しかも、その要因となった一つに、息子の調略による活躍があったというではありませんか。

意気揚々と帰ってきた息子は、官兵衛に活躍の報告をします。

家康に褒美を手渡されたと言う息子に「その時お前の右手(刀を持つ方)は何をしていた!」と一喝します。

その後は、一切政治に関与せず、隠居生活を送り59歳で死去します。